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アドラー的には「片づかない原因」は意味がなく「片づける目的」さえ持てば良い?

過去・現在・未来、イメージ

前回はベストセラーとなった『嫌われる勇気』の冒頭部分を引用しました。片づけをするうえでアドラー心理学はきっと役に立ちます。『嫌われる勇気』を読めば、他の何者のせいにすることなく自分自身を善い方向に変えることができるでしょう。

そのように、いわば私は『嫌われる勇気』をべた褒めしたわけですが、全面的に納得しているとまでは言えません。アドラー心理学や本書を否定するわけではないですが、この点においては片づけとは相容れない側面があるのではないかと考えているところがあるのです。



「片づかない原因」は意味がない?

私が違和感を感じている、もしくは十分に理解できないのは、『嫌われる勇気』の「第一夜 トラウマは、存在しない」で語られる以下の箇所です。

アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。

われわれは原因論の住人であり続けるかぎり、一歩も前に進めません。

このあたりの部分を要約すると、「人間は過去に縛られる必要はない。」ということが語られています。また、本書の後半部分では未来を考える必要もなく、今を目的に沿って生きれば良いというようなことも書かれています。

私自身、猪突猛進型で「今」を必死に生きるタイプなので、この考え方には大いに納得するところです。また、片づけにおいても過去のしがらみなど忘れて、前さえ向いていれば良いんだという教えは爽快に感じる方も多いと思います。実際、アドラー心理学に片づけを絡めて話す場合、この「目的論」に触れられることが多いように思います。

ですが結論から言うと、片づけから「原因論」を廃して「目的論」だけで語ることは愚かだと私は考えています。

 

片づけはマイナスからのスタート

一応お断りしておきますが、私はアドラー心理学を極めたわけではなく、今後もその予定はありません。私にとっては「片づけ」が目的であって、アドラー心理学は「手段」に過ぎないからです。ですから、私の理解が至らないところはあるでしょうし、アドラー心理学を否定するつもりも毛頭ありません。

片づけるときに自分自身がどうしたいのかと考えることはとても大切です。そのことは私も著書で述べている通りです。ですから「目的論」も大事なことは間違いないですが、だからといって「原因論」が無意味だという話にはなりません。

なぜなら、片づけはいつもマイナスからのスタートだからです。片づけで困っているときは、必ず身の周りのモノに悩まされています。だから、片づけで困ると「全部燃えてしまえば良いのに!」と思ってしまう人がたくさんいます。しかしながら、それは「なかったことに」することはできないのです。

 

片づけは「原因論」で語ることにメリットがある

十分な説明とまでは言えませんが、以上に述べたことだけでも片づけは目的論だけで語ることができないことは理解してもらえると思います。それともうひとつ、片づけは「原因論」で語ることにメリットがあるのです。

もし片づけを目的論だけで語ることができるとすると、身の回りには何一つモノがない、もしくは何のしがらみもなくすべて潔く捨ててしまえる状態だと考えることができます。その場合、片づけで困るはずなどないわけですが(苦笑)、それでも何かしら片づけのことで思い悩むことがあったとしましょう。でも、それだと片づけるために何ら指針を得ることができないのです。

片づいていない状態は一概に悪いこととは言えません。ですがそれを仮にネガティブなことと考えた場合、一方で身の周りのモノは今後の指針を決めるうえで重要なヒントを与えてくれるのです。自分にとってどんなモノが使いやすいか、どんなモノが好きなのかなどを身の周りのモノは教えてくれます。もし視覚的に見えるものではなくて頭の中だけでそれを処理しようと思えば、それは非常に難しい作業になってしまうと思います。

 

アドラー心理学で大事なのは「今」であり「捉え方」

アドラー心理学は何も未来志向で享楽的な生き方を志向するものではありません。過去でも未来でもなく「今」が重要だと説いています。

ただし、この「今」の定義が少なくとも『嫌われる勇気』では語られていません。狭義で「今」を語った場合、「い」と発した瞬間からそれは過去のものとなりますから、常識的に考えるとここで言われる「今」は直近の過去まで含まれると考えることが妥当ではないかと思います。

そう考えると、片づけでも人間関係でも「今」の状況を「なかったことに」することはできなくなってしまいます。自分自身も身の周りの人もモノも現実として受け止めなければなりません。

そのときに身の周りの人やモノを厄介者として扱うか。逆に今後の指針を与えてくれるヒントの山と捉えるか。そこが重要です。アドラー心理学は「捉え方」の学問と言うこともできますから、前向きに捉えることができるのであれば原因か目的かということは大きな問題ではないと私は考えます。

 

原因を考えることはネガティブなことではない

『嫌われる勇気』では、「過去は変えられないのだから考えても無駄だ。しかし今は変えられる。だから可能性のないことに思い悩まされるよりも可能性があることを考えたほうが合理的だ。」と語られているように私は感じました。

確かにその通りです。私自身もそういう考え方で生きているように思います。しかし、それは原因論を否定するのに十分とは言えません。

ここで問題なのは、本書では「原因論=ネガティブなもの=悪」と捉え、一方で「目的論=ポジティブなもの=善」と捉えてしまっていることです。しかし、原因を考えることは必ずしもネガティブなことではありませんし、ネガティブに捉えることは悪いことではありません。むしろ日本人的感覚というのはネガティブであり、仏教的で自然な考え方であると私は考えています。

ところがどういうわけか、『嫌われる勇気』では原因を考えることがさもネガティブなことであるかのように書かれており、そのために原因論が間違っていて目的論が正しいかのように印象操作されているように思います。このあたりは残念ながら私にはタチの悪い自己啓発書にありがちなステレオタイプに基づくもののように感じられました。

繰り返しになりますが、過去は必ずしもネガティブなものとは限らないはずです。また、照明が消えたら分電盤を確認したり、家の外を見たりするように、原因を追究するほうが解決が簡単なことも多いはずです。本というのは妙な説得力を持っていますから、そのへんは騙されないようにしてください。

 

アドラー心理学が目的論に立っていること自体は私にとっては問題ではありません。しかしながら、片づけをアドラー心理学に絡めて目的論だけで解決に結びつけようとするのは無理があると感じます。

もちろん、アドラーも『嫌われる勇気』の著者も片づけを論じているわけではありませんから、彼らの問題ではありません(苦笑)ただ私が申し上げたいのは、片づけをするにあたっては原因論で考えることも重要だということだけです。

 

【続編】片づけの悩みは「すべて対人関係の悩みである」!

 

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